三話 宇都宮藩存続の救世主

 

 ー縣には悪いことをしたー

 江戸時代もあと二年で終わる慶応二年(一八六六)、戸田忠至は宇都宮藩から一万石を分知され、高徳に立藩、江戸時代最後の大名誕生となった。慶応元年(一八六五)十二月、山陵修補を完了し、二条関白や幕府からの恩賞沙汰があった。藩主の一族とはいえ、次男の次男という血筋ゆえに貧乏与力の養子となり、その後、間瀬家に入った御陰で、ようやく出世し家老になった身である。文久二年(一八六二)に山陵修補が決まり、戸田姓に復し、山陵奉行に任じられてからは、翌年に従五位下大和守に叙任、元治元年(一八六四)には大名格で諸侯に加えられた。たった四年で本物の大名になってしまったのである。

 戸田家は老中を出した家柄であった。しかし、島原へ転封となり、幕閣に返り咲くため様々な手を使った。ようやく宇都宮に戻ったが、資金は底を突き、借金は莫大な額に上り、幕閣に返り咲くどころか、当主は短命で代替わりが多く、忠至は本家を離れて二代目であるが、本家は五代を相続している。

 文久二年、坂下門外の事件があった。宇都宮藩の関係者四人が獄に繫がれ、その中に藩校教授の大橋訥庵がいた。藩内の動揺は大きかった。教え子も多く、意気消沈する者、尊皇攘夷に激高する者など様々だった。訥庵救出のため、上席家老であった忠至は、江戸藩邸と宇都宮を往復する日々であった。藩論が二つに割れ危機的状況となっていたある日、江戸藩邸で縣信緝に諮問したところ、山陵修補の建策を打ち出してきた。

 |そうそう、我が藩の切り札であるとして「近クハ、我ガ宇都宮ノ蒲生君平ニシテ、身自ラ其実地ヲ経歴シテ之ヲ探索シ、山陵志ノ著述アリ」 と申したな|

 忠至は、山陵修補建白後、縣とは途中まで最前線で共に山陵修補の指揮をとっていた。事業も軌道に乗り、縣は後方支援のため藩に帰り中老職となったが、元治元年に起きた天狗党の乱に同情的であるとの理由で、現在は、獄に繫がれている。これは、宇都宮藩最大の危機となった。天狗党の乱に藩士が荷担したとの罪で、我が藩は、翌慶応元年、二万七千石の召し上げと奥州棚倉への移封の命が持ち上がった。しかし、山陵修補中であるとの理由で事なきを得た。今、山陵修補が完成し、恩賞に与る瞬間、最大の功労者は獄中にある。

 ーそれにしても二度、蒲生君平には助けられたことになるなー

 五十八年前に版刻された本が藩の危機を救ったことに思いを馳せる忠至であった。

 それから凡そ一五〇年が経った今日、蒲生君平一族の子孫に伝わる君平の肖像画には、戸田忠至が書き加えた歌が残されている。

  君のため 心尽せし功しも

    いまぞ 雲井に 高く聞こゆる

 

『下野教育』758 平成三十年五月号 所載 

    「前方後円墳の名付け親蒲生君平」篠原祐一 栃木県連合教育会 より